さて、これまでの内容を踏まえて、ようやく本題に移りたいと思います。「6つ子は大人になれたのか問題」です。

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「赤塚イズム」とは何なのか


前の記事で書いた通り、私はおそ松を、「現代社会に赤塚イズムを復活させる役割を背負わされた赤塚ヒーロー」と捉えています。

では、赤塚イズムとは何なのでしょう。明確な定義はありませんが、赤塚先生はこんな言葉を遺しています。
バカっていうのは自分がハダカになることだ。
世の中のいろんな常識を無視して、
純粋な自分だけのものの見方や生き方を押し通すことなんだよ。
バカだからこそ語れる真実っていっぱいあるんだ。
ただバカっつったって、ホントのバカじゃダメなんだからな。
知性とパイオニア精神に溢れたバカになんなきゃいけないの。
リコウよりバカが英雄なのだ。
おそ松はこの言葉通り、「小学6年生のメンタルのまま成長してしまった奇跡のバカ」「揃って童貞クズニートの6つ子の長男」として、社会常識を覆そうとしていたのではないでしょうか。

2話ブラック工場での「大人になるとは、思考停止してもいいからとにかく働くこと」に対する「これって騙されてない?」もそうですが、
4話で就活しろと促すチョロ松に対しておそ松が放った、「やだねえ、欲が強い人は」「これ以上何を望むっていうんだよ?家もある、食べ物も着る服もあるんだよ。その上仕事に就こうなんて贅沢すぎ」という言葉も印象的でした。

長時間労働によって家族や友人との時間、好きなことをする時間を取れずにいる人が、いまの時代あまりにも多いですよね。

おそ松が使う「なごみ」の魔法


そうした「現代社会におけるどこか歪んだ状況」をおちょくるために、おそ松は主役として「なごみ」(≒ギャグ)の魔法を使っていたんじゃないかな、と思っています。

監督はインタビューで「『なごみのおそ松』はおそ松のキャラを立てるための回」という主旨の発言をしています。「複雑に入り組んだ現代社会にやわらかなスプーンを入れ、さまざまな謎や疑問を徹底的に知らんふりー!」するのがおそ松というキャラクターなのでしょう。

また、2話『おそ松の憂鬱』が『涼宮ハルヒの憂鬱』にかけているなら、なごみは現実世界をギャグ世界に改変する能力、と言えるかもしれません。

ところが18話、主役争奪カーレース。勝つことができなかったおそ松は、その力を奪われたのではないでしょうか。19話でチョロ松の自意識が爆発したのを皮切りに、「柔らかなスプーン」ではなく「鋭いメス」が振るわれるようになったように感じます。監督がインタビューで「19話以降、クッソつまんなくなります」と言っていたのもそういう意味かと。

そして、23話ではついに「灯油」が切れました。「灯油」は厳しく寒い場所をあたためるもの、つまり「なごみ」(≒ギャグ)の象徴です。それを失ったことで、24話で弟たちは現実世界の常識に飲み込まれていきました。
ダ・ヴィンチ 2016年 05月号 [雑誌]
ダ・ヴィンチ 2016年 05月号 [雑誌]
※ダ・ヴィンチに掲載されていた「なごみのおそ松リターンズ」(乙一)、メタ探偵を主人公とした「九十九十九松」(舞城王太郎)、すごーーくよかったです。

ダヨーンの体内=ジョゼフ・キャンベルの神話論でいう「鯨の胎内」


ちなみに『灯油』に続く『ダヨーン族』は、ジョゼフ・キャンベルの神話論でいうところの「鯨の胎内」と見ることができます。

キャンベルは「世界各地の神話には、“少年が異界へ行き通過儀礼を受け、大人になって帰ってくる”という共通の構造がある」「それは人間の自己実現のプロセスと対応している」と提唱した学者です。「鯨の胎内」はそうしたヒーローズジャーニーにおけるステップのひとつで、少年はそこで象徴的な死と再生を遂げます。冒険の末、人間に生まれ変わったピノキオのように。

ダヨーンの体内はまさに6つ子にとっての「鯨の胎内」。顔も言葉も立場もみんな同じで、底なしの穏やかさと安心感に包まれた世界。6つ子が母親の胎内にいた頃の状態であり、『おそ松くん』時代の状態です。

6つ子たちはそんな「こどものままの自分を肯定してくれる世界」にさよならと手を振りました。優しくて居心地の良い場所を捨て、くそまみれになりながら厳しい現実世界へと向かっていく。これはつまり「大人になることを選択した」ということでしょう。

私はこのとき、かなりびっくりしました。確かに『おそ松さん』のテーマは「大人になるとは?」だと思っていたけれど、これだけ人気が出たなら映画化もされるだろうし2期も製作されるだろうから、そのあたりはぼかして描くだろうと予想していたのです。でも!こんなに明確に成熟への意志を描いてしまったら、もう自立は不可避じゃないですか。一生全力モラトリアムするんじゃなかったの…?
千の顔をもつ英雄〔新訳版〕 上 [ ジョーゼフ・キャンベル ]
千の顔をもつ英雄〔新訳版〕 上 [ ジョーゼフ・キャンベル ]
(※余談ですが、キャンベルの物語論に倣って「鯨の胎内」を思わせる場所を主人公が通過するシーンを入れている映画やアニメは結構多いです。『崖の上のポニョ』でも洞窟内でポニョは魚に戻り、その後人間へと生まれ変わりますね) 

24話は「自立」か「抑圧」か


24話では実際に、おそ松を除く5人が次々と家を出ていきました。前のエントリ(『おそ松さん』6人6様の課題と成長)に詳しく書きましたが、それぞれが抱えてきた課題を克服する様子がしっかり描かれた回だったと思います。

そのことは本当に素晴らしいと思ったし、家を出て兄弟が離れて暮らすことも、働くこともいいと思います。ただ、どうにも釈然としないもやもやが残りました。それは、彼らが社会に「迎合」しているように見えたからです。

チョロ松は接待の席で上司に頭を叩かれながらも笑っていましたが、一人だけ箸袋から箸を出していないし、取引先の人は気の毒そうに見ています。背景には「苦」と描かれた掛け軸と、尻に「金」と描かれ鎖に縛られた豚の置物。

十四松は工場で腕を骨折して夜遅く家に帰ってきました(あの触手のようにうねうねしていた十四松の腕が!本当に「なごみ」が消えた世界ですね)。

カラ松は職を得るためにハローワークで土下座しました。ニートが就職するためには土下座までしなくちゃいけないのでしょうか。この世界は、社会に出ようとする若者を全く祝福していません。

「現実社会だってそんなものだろう、会社に合わせるのは当然だ、パワハラだってサビ残だって労災だって当たり前にある、みんな耐えているんだ、苦しくても頑張っていればいつか花が咲くんだ、それが大人になることだ」と言う人ももしかしたらいるかもしれません。

私にはそれは、抑圧に見えます。

彼らがお揃いのパーカーを脱いだのは、兄弟への依存を辞めて個としてのアイデンティティを確立しようという意志を象徴しているのだと思います。

それと同様に、「スーツ」や「作業着」を着るということは、“社会人としてあるべき姿”を演じるために豊かな個性と感情を殺すことを象徴しているように見えました。ニートから鬱予備軍にコースチェンジしただけではないでしょうか。

大人になること=自分で自分を肯定して、世界をより良いものへと変えていくこと

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そもそも、「大人になるとは、就職すること、お金を稼ぐことではない」というのは2話からずっと語られてきたことです。「女に選ばれること」「童貞を卒業すること」でもないし、「家族をつくること」でもありません。

では、大人になるとはどういうことなのでしょう。おそらくそれは、「自分自身と向き合ってダメな部分も受け入れること、課題を克服すること」「社会をより良いものにしていくために、自分の役割を果たすこと」じゃないかと思います。

前者に至る道程は24話かけて描かれてきました。イヤミも言っています、「プロのお笑い芸人になる第一歩は、今まで積み上げてきた経験や自信を捨てて一度素人に戻ることだ」と。彼らは自分の個性を一度捨て、“精神的な”自立と成長を遂げました。

だから別に、“社会的な”自立を目指さなくてもいいのだと思います。社会で認められるため個性や感情を殺すなんて赤塚ヒーローらしくない。そんな意味を込めておそ松は「就職とか自立とかワガママ言ってる場合じゃない」と言ったんじゃないでしょうか。25話で兄弟みんなシコ松していたのは「ひとりだち」にかけているんだと思いますが、「自慰行為に過ぎない」という痛烈な批判も含まれているんじゃないかと。

彼らが果たすべき役割とは何なのか。それはやっぱり、「赤塚イズムを現代社会に復活させること」でしょう。自分たちの個性を爆発させて、冷たく厳しい現実社会をひっかき回して、ギャグの魔法で満たすこと。

赤塚イズムは卒業すべき過去のものではなく、いまの時代にこそ必要なもののはずです。

もし、『おそ松さん』世界が息苦しい現代の写し鏡で、「6つ子たち」がいまの祝福されない若者たちを表しているなら、必要なのは「苦しくても耐えろ」というマッチョイズムではなく、「いつまでも優しい夢を見ていよう」という逃避でもなく、「自分で自分を肯定して、逞しく世界を変えていけ」というメッセージだと思うんですよ。

長くなったので、後編に続きます。